活動報告
- ひろしま
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「ふるさとの街やかれ、身よりの骨うめし焼け土に、今は白い花咲く、ああ許すまじ原爆を、三度許すまじ原爆を、われらの街に。」これは、『原爆許すまじ』の一番の歌詞です。実は、町長や同僚議員らと一緒に昨日と一昨日の二日間、広島方面に平和学習と、デマンド交通の勉強に行ってきたんですが。その時に、平和公園を訪れた際、バスガイドさんが披露してくれた歌なんです。もう、しばらく前になりますが、私の二十代のころの事ですが。青年運動を通じて、平和の尊さをいろいろ学びましたし、核兵器廃絶の取り組みで広島や長崎にも何度も訪れました。そのころ、みんなでよく口ずさんでいた歌の一つでしたから、「あっ、原爆許すまじや」と、当時の事が思い出されました。実は、観光バスで、広島市内へ入ったのは今度が初めてなんです。で、この歌は、現在も平和公園の横を通過する際の、路面電車の車内放送で流れていると、バスガイドさんから教えてもらいました。一日も早く地球上から核兵器を無くすべく、様々なところで多彩に取り組まれているようですね。
さて、今回の目的は、その一つが、被爆者の方から当時の模様をお伺いする事でした。こうした体験談も、その語べの方々が少なくなっている事でしょうが、貴重なお話ですし、後世にきちんと伝えておくことが何より大切ですよね。いつ聞いてもその惨状は筆舌に尽くしがたい事が強烈に伝わってきます。広島と長崎の平和記念資料館の展示も、当時を知らない私たちには強烈なインパクトで伝わって来ますが、実際に体験なさった語べの皆さんからは、「たったこれだけなのか。こんなものじゃない。再現は不可能だ。」とおっしゃる程、実情とは違うようですが、本当にそうなんでしょうね。
私が初めて訪れた原爆資料館は、長崎の資料館でした。どなたもそうかも知れませんが、何も知らない者が、初めてその惨状を目にした時は強烈なインパクトを覚えます。今も当時も、広島や長崎の資料館には、就学旅行などで平和学習に来る子どもさんも相当おられるでしょう。私がはじめて訪れた長崎の資料館は、前の古いほうの建物でして、出て来はる皆さんと入りしなに行き交うんですが、その行き交う中高生の特に女子の皆さんは、その多くが目を真っ赤にしてハンカチを当ててましたから、「いったい何があんねんやろ」と思いつつ、順路に従って中へ入って行きましたら、「なるほど」と、すぐ分かりました。そこには、初めて見る者には思わず目を背けたくなるような被爆の様子を伝える写真が展示されていました。「よく、写真に記録されていたなぁ」と、関心もしましたが、とにかく強烈な印象を与えられました。まぁ、何度見ても、これらの写真は「核兵器は絶対に使たらあかんし、無くさなあかん」と決意を新たにさせられます。
今回のお話で協調されていたことですが。アメリカの市民が変わり始めている。十年ほど前にスミソニアン博物館へ語べと原爆写真展に出向いたときは、アメリカの正当性を主張する意見が多く、展示もままならんかったそうですが、それが今では様変わりし、どこでも歓迎して迎えられるそうです。中には、話を聞いてくれた中高生が、「アメリカ市民を代表して心から謝りたい」と感想を語ってくれるとの事でした。この変化、まさに地道な長年にわたる核兵器廃絶に向けての被爆者の皆さんを中心とする運動の成果であり、世界とアメリカの世論を動かしてきている証拠です。その流れは、オバマ大統領を選びだしているアメリカ市民の動きにもつながっているのではと思います。そのオバマ大統領自身も歴代大統領の中で初めて核兵器を使用した事のある唯一の核兵器保有国として道義的責任を認め、核兵器の廃絶を世界に呼びかけ立ちあがろうとしている事は皆さんも御承知の通りです。
地道な運動がここまで来ているようです。核兵器廃絶に向けて唯一の被爆国の一地方自治体、一地方議会としてもこうした運動に連帯して、できる取り組みを進めて行くように、これからの議会を通じて具体化を図って行きたいと思います。今回参加した同僚議員の皆さんも、きっと、そのように深く心に刻んだ事でしょう。
ぜひ、ご意見・ご感想をお聞かせください。
町会議員 芝 和也