活動報告
- 軍艦島
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軍艦では在りません。船では無くて正真正銘の島なんです。
端島(軍艦島)
写真は、海に浮かんでいる軍艦では在りませんでして、実は、一昨年に世界遺産暫定リストに掲載された、長崎半島西方沖約4.5㎞に位置する炭坑跡の島、端島なんです。この島、長崎半島方面から遠望すると旧日本軍の軍艦「土佐」に似ている事から、通称『軍艦島』と呼ばれるようになったようです。
実は、今年の夏休みに大分から熊本を通って長崎に妻と旅行して来まして、その折、長崎に行った際に、この『軍艦島』とやらへ渡って来たんです。
もう、30年近く前になりますが、今般の旅行と同じようなコースで単車でツーリングに出かけた事が有ったんですが、その時、長崎半島の野母崎方面からこの島を見て、軍艦のように見えるこの島の事を地元の人に尋ねると、「軍艦島て言うて、元炭鉱やった島やで」と教えてもろたんが、私がこの島の事を知った切っ掛けでした。
端島は、1974年の1月15日に閉山され、同年4月20日に無人島になって以来、立ち入り禁止になったようですから、一般には渡るすべは無かったんですが、冒頭に触れましたように、2009年1月5日に「九州・山口の近代化産業遺産群」の構成資産の一つとして世界遺産のリストに暫定登録された事により、島への上陸ツアーなどが始まり、我々一般人も、見学用に整備されたエリアに限定されていますが立ち入る事が出来るようになりまして、ツーリングをした時に気になっていたこの島に行く事が出来たと言う訳です。以下、少しだけですが、その様子を紹介しますね。
島の北側から中央部を見たところです。断崖の上、左から貯水槽、管理職の社員宿舎、そして神社跡と連なっています。
で、このRC4階建ての管理職用宿舎と言うのは、今では当たり前になっていますが、風呂付の住宅になっていて、一般の社員は共同浴場を使っていたと言う事ですから、待遇が大分に違った事が伺えます。
その右が、島の安全を祈願した端島神社の祠が見えるのが分かるでしょうか。今では、朽ちていますが、祠の左手、宿舎側には神殿が有ったそうです。
ちょっとだけ寄りました。端島神社の祠です。
祠の右手へ目を移して下さい。見えている7階建ての建物は、右端が学校で、それと90°に重なって奥(写真では左手)に見えているのが、一般用社宅(こちらは9階建て)です。この社宅の屋上には幼稚園が設けられているそうです。「何で屋上やねん」との疑問もお有りでしょうね。島の土地は限られていますので、普通は立地の対象にならないようなところも有効活用せなしゃ~ないとの事でした。
写真では右端に移っている学校の建物は、1階から4階までが小学校で、5階と7階が中学校、6階は講堂と図書館と音楽室が設けられていたそうです。グランドはその建物の向こう側になるそうです。
学校左手の低い建物は、資材倉庫で、その向こう、一般住宅との間には、写真では認められませんが、体育館が有ったそうです。
学校に迫って見ました。写真では分かりにくいですが、四つの建物が写っています。さっきも書きましたが、学校棟は90°に重なっていて、実際には手前に張り出している窓の部分が広い建物です。左手手前の低い建物が資材倉庫です。
その奥の建物の4階付近を注視して見て下さい。錆びて朽ちた鉄骨片が有るのが見受ける事が出来るんですが、分かるでしょうか。これが、体育館の屋根の骨組みだそうです。奥の一般用住宅は9階建てで1945年の建築でして、右側の学校が7階建てで1958年の建築です。朽ちた体育館は1970年の建築だそうです。
建物が重なっていて分かりづらいですが、窓の部分を注視してください。出来るだけ効率よく採光できるように窓枠が広く確保されている建物が見てとれる思うんですが、ここが、学校の建物です。窓枠が小さく仕切ってある建物は、この学校棟とは90°に配置されていて、写真では、学校棟の向こう側に90°に重なっているんです。写真でも分かるように、居住棟は窓が小さく部屋の採光も良くなかった事から、せめて学校にいるときには、太陽光を出来るだけ当たれるようにと言う配慮から、窓を広く取った設計が為されているとの事でした。
さっきの位置から、90°西側へ回り込みました。全体が一つの建物に見えますが、真中辺りから左側半分は、窓枠が広くて、建物が窓と柱で出来ていて何となく明るく見えますよね。ここが学校棟です。で、窓枠のスペースが小さく暗く見える建物が一般住宅で、右端の低い建物は、病院棟でその手前、防波堤際の更に背の低い白っぽい建物は隔離病棟との事です。
更に90°回り込みました。祠の見えていた写真の位置からすると丁度島の反対側になります。こちら側には、こうした一般住宅が防潮堤際にずらっと並んでいるんですが、窓のスペースが小さいですよね。これは、島にたたきつけて来る波が、防波堤を超えて入って来るので、それを防ぐための役割を建物で兼ねるために、窓のスペースを小さくしたそうです。
ただ、防波堤の上、左から二つ目の窓枠だけ、大きくて、向こう側の明かりが透けて見えていますよね。実は、これは島の向こう側の採掘現場から出て来る、ボタ(採掘後に鉱石をより分けた後の残りかす。一般にはズリ、九州地方ではボタと呼ぶ)を捨てるためのトンネルの出口で、24時間昼夜を通してベルトコンベヤーが回っていて、島の真中をトンネルが通って、こちら側まで抜けていたそうです。
さっきのがトンネルの出口で、今は塞いで有りますが、これが反対側に有る島を貫いていたトンネルの入り口です。
階段の付いている建物が、深さ、海面下600メートルまで一気に下りるエレベーターへの桟橋棟との事でした。今は有りませんが、この桟橋棟の向こう側に巻き上げ気が設置されていたとの事でした。実は、この島、海底炭鉱で、最深部は海面下実に1,100メートルまで達していたそうです。
この島は、1810年ころに石炭が発見されて、当時は佐賀藩が採掘していたそうですが、1890年に三菱合資会社の経営となって、1891年から本格稼働し、1974年の閉山までの83年間で、1,600万トンの石炭が掘り出されたとの事です。端島の石炭は非常に良質でしたので、新日鉄八幡製鉄所にどんどんと運び出され、日本の近代工業を支える重要なエネルギー源としての役割を担ったとの事です。
ただの廃墟と言われればそこまでですが、我が国の近代産業を支えた産業遺産としては、確かに間違いありません。関係者の努力が実って無事に世界遺産に登録されると良いですよね。皆さんも機会が有れば一度出かけられてはいかがでしょうか。
ぜひ、ご意見・ご感想をお聞かせ下さい。
川西町議会議員
芝 和也